近年、日本の政治シーンにおいて、ある種の変化が顕著になっています。それは、選挙活動が一部の熱心な支持層にとって、一種の「レクリエーション」や「エンターテインメント」として機能し始めているという現象です。
ポスティングに汗を流し、駅前で旗を振り、SNSで「推し」の政治家の魅力を拡散する。そこには、かつての重苦しい政治参加のイメージとは異なる、体育会的なノリや同好会的なワクワク感が漂っています。しかし、この「政治のエンタメ化」は、私たちに何をもたらし、何を変えようとしているのでしょうか。
なぜ選挙は「興奮」を呼ぶのか
公明党(創価学会)が歴史的に培ってきた組織的な団結力、参政党がSNSを通じて広げたDIY的な参加スタイル、あるいは、れいわ新選組が街頭で見せるエモーショナルな訴え。これらには、現代人が渇望している「居場所」と「自己有用感」が色濃く反映されています。
孤独が社会問題化する中で、「同じ志を持つ仲間」と一つの目標(当選)に向かって身体を動かすことは、脳内にドーパミンを放出させる強力な体験です。また、自分の応援が「票数」というスコアで可視化されるゲーム性は、日々の生活では得がたい達成感を与えてくれます。
選挙は、もはや単なる「代表者選び」ではなく、参加者自身のモチベーションを向上させ、人生に彩りを与える「最高にエキサイティングな祭事(フェス)」となっているのです。
「推しカルチャー」の危うさ
しかし、政治が「推し活」のようになることには、手放しでは喜べない危うさも潜んでいます。
最大の懸念は、「人を見て、政策を見ない」という傾向が強まることです。「この人が好きだから」「この人は自分たちの味方だから」という感情的な結びつきが強すぎると、肝心の政策の中身や、その実行能力に対する冷静なチェックが疎かになりがちです。
また、「推し」を全肯定したいという心理は、自分たちと異なる意見を「敵」と見なす二項対立を深めます。SNS上で繰り広げられる過激なバッシングや、エコーチェンバー(閉鎖的な共鳴空間)の形成は、多種多様な利害を調整するという政治本来の役割を妨げかねません。熱しやすく冷めやすいというエンタメの性質上、ブームが去った後に深刻な政治不信や虚脱感が残るリスクもあります。
「成熟した政治」への3つのステップ
では、こうした「熱狂」を、一過性の祭りで終わらせず、社会をより良くする「政治の成熟」へと昇華させるにはどうすればよいのでしょうか。
1. 「情緒」から「契約」への意識変革
政治家を「憧れのスター」としてではなく、「税金というリソースを管理させる契約相手」として見る冷徹さが必要です。選挙は応援合戦である以上に、厳しい採用面接であるべきです。掲げた公約がどの程度進捗しているのか、四年に一度と言わず、衆院選、参院選、地方選挙と絶え間なく続く審判の機会を、私たちは「契約更新のチェックポイント」として活用しなければなりません。
2. 「認知的不協和」に耐える知性
自分の支持するリーダーが間違いを犯したとき、あるいは自分の考えとは異なるが妥当な意見に出会ったとき。その違和感(認知的不協和)を排除せず、向き合うことが成熟の証です。「100点満点の救世主」など存在しないという前提に立ち、是々非々で議論できる複眼的な視点を持つことが、独裁やポピュリズムへの防波堤となります。
3. 「点」ではなく「線」で政治を捉える
日本には多くの選挙があります。国政の大きなうねりと、地域の身近な課題は繋がっています。一回の選挙の勝ち負けに一喜一憂する「点」の参加から、前回の投票がどのような結果をもたらしたかを確認し、次の投票に繋げる「線」の参加へ。この継続性こそが、政治を「消費されるエンタメ」から「守るべきインフラ」へと変えていきます。
おわりに:祭りの後の静かな責任
選挙を楽しみ、熱中すること自体は決して悪いことではありません。むしろ、政治という「硬い」テーマに多くの人が関心を持つきっかけとして、エンタメの力は強力な武器になります。
大切なのは、祭りの高揚感の中にいながらも、どこかに「冷めた目」を持ち続けることです。熱狂をエネルギーに変えつつ、手綱を握るのはあくまで自分たちの「理性」であること。政治を推す楽しみと、社会を運用する責任。その両輪を回し始めたとき、日本の民主主義は本当の意味で「成熟」したと言えるのではないでしょうか。





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